岩崎久彌

久弥は、50歳の若さで三菱の社長を甥の小弥太に譲りました。それからは、三菱合資会社の事業には一切口をはさみませんでした。彼は、岩崎家の事業としての農牧に時間を費やしました。若い頃から農牧に興味があり、専門は経営学や会計学だったにもかかわらず、米国から取り寄せた本は、農業や牧畜に関わる本でそれを原書で読んでいました。小岩井農場は、叔父・弥之助が明治24年に、当時の鉄道局長・井上勝、日本鉄道副社長・小野義真との共同で開設したのが発祥です。3人の名前を一字ずつとって小岩井農場と命名されたのは有名な話です。JR東北本線の開通で沿線に農耕事業を興すことを理由に、盛岡郊外の官有原野の払い下げを受けたものでした。しかし、岩手山麓の火山灰地は予想以上に不毛でした。結局、8年の苦闘の末、小野と井上は手を引き、岩崎家が引き取りました。(明治32年)厳しい自然条件では有りましたが、当時、初代三菱地所会長になる、赤星隆治が小岩井に赴任、帝国大学出の農業技師たちの定着に努力し、今日にいたる小岩井農場が出来上がりました。久弥は、農牧に情熱を傾け、馬の生産を中心に、育牛・林業・農耕と手を広げ、イギリスからはサラブレット種の種馬を輸入し改良・生産、競走馬の育成に力を注ぎ、小岩井産の駿馬はやがてダービーを制覇するまでになりました。かつては見渡す限りの荒野だった大地を緑の森に変え、酪農製品の製造販売にも注力し、地道な植林事業にも成功し昭和13年(1938)に小岩井農場を法人組織に改め小岩井農牧株式会社を設立しました。しかし、敗戦で事情は変わり、農地改革で、300万坪(1000ha)を開放し、食糧生産優先政策の為昭和24年に育馬事業は終わりました。一方では、牧場は農林省指定牧場として再建され、種牛の飼育・乳製品の製造・林業・七面鳥の飼育・農作物の栽培を行いました。この他にも、千葉の冨里「総の十三牧」と称する幕府の直轄放牧地を弥之助が明治20年(1887)明治政府から100万坪の土地の払い下げを受けたことから始まりますが、その地も又、土地として痩せていた為、下総植林事務所を設け、スギ・マツ・ヒノキの苗木を110万本植え、20年間植林地として保存しました。明治44年に久弥の弟・正弥がアメリカから帰国、弟の為に養豚・養鶏場を開設し、土地の形が扇形だったので、末広農場と命名しました。晩年、妻・寧子に先立たれ独り身の生活をここで過ごしました。次回・終焉。