2021/12/12
第30回財閥編・三井八郎右衛門高棟⑨...
2021/12/12
第29回財閥編・三井八郎右衛門高棟⑧...
2021/12/12
第28回財閥編・三井八郎右衛門高棟⑦...
2021/10/01
初代理事長に就任した団琢磨は、安政5年(1858年)福岡藩士の子に生まれました。旧藩主・黒田長知に随伴する海外留学生に抜擢され渡米します。マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学び、帰国後、三池炭礦に赴任しました。ところが、明治政府所有だった三池炭礦を民間に払い下げることになり、1887年に三井物産が落札し、団琢磨もそれに伴い三井に入社しました。それまで三池炭鉱は稚拙な設備で採炭しており、団は幾度となく設備増強を建言しましたが、政府筋は取り合いませんでした。しかし、三井の買収後、団の申し入れは受け入れられ、三池炭礦は良質の石炭を大量に採炭できるようになり、一躍、三井のドル箱になりました。巷では、「あのヤマ(三池炭礦)を三井は少し高く買ったが、団さん付きと考えれば、安い買い物だった」と言われるほど、団の評価は高いものでした。団は、工業化を嫌う益田と協調しつつ、鉱業・化学を中心に三井の工業化路線を推進しました。三井本家の当主・三井八郎右衛門高棟は、団より1歳年上で、団に並々ならぬ信頼を寄せていましたので、口うるさい分家を抑えて、団を支援しました。だが財閥批判の中、昭和7年(1937年)血盟団事件(2月から3月にかけて発生した連続テロ~政治暗殺事件)の犠牲になりました。憶測は色々ありましたが、ここでは控えさせて頂きます。でも、とても残念な事でした。 団の死後、三井銀行筆頭常務・池田成彬が三井合名筆頭常務理事(事実上、三井財閥の総師)になりました。又、三井家当主は高棟が引退し、子の八郎右衛門高公が三井合名社長に就任しました。しかし、若い三井家当主では、分家を抑えることが出来ず、池田は、「三井合名では三井家対策に7~8割の力を費やされ、本当の合名の仕事には2~3割しかさけなかった」と述懐していました。池田は、大磯に別邸を構え、現在滄浪閣の隣に現存している建物は、池田の建物でした。中條誠一郎が設計し、彼は辰野金吾の弟子ですので,ジョサイヤコンドルの孫弟子になります。神奈川県建物100選に選ばれています。池田成彬は、慶応2年(1867年)米沢藩・江戸留守居役の子として生まれました。慶應義塾大学卒業後、ハーバード大学に留学します。帰国後、時事新報社に入社しましたが、薄給を不満に思い三週間で退社します。同年、慶應義塾塾長の推薦で三井銀行に入行します。中上川彦次郎に気に入られその長女と結婚。団琢磨・池田成彬のお墓は護国寺に有ります。
2021/10/01
1890年、時代の変革に遅れをとった三井銀行は、この難局を乗り切るために、中上川彦次郎に白羽の矢が立ち、彼は不良債権の整理から着手し、経営の近代化を図りました。改革を推進する人材を確保する為多くの学卒者(特に慶應義塾OBや新聞記者出身者)を中途採用しました。今まで政商的だった三井の空気は一変します。三井銀行の不良債権は、多くが政治家や有力者との癒着で回収不能となっていましたが、中上川は学卒者出身の行員を差し向けて厳しく督促し、断固として回収しました。三井家では、鉱山業に投機する事を禁止していましたが、工業立国近代化に寄与すべく、工業化路線を積極的に推し進めました。中上川は三井物産の下にあった鉱山事業を統括して、1892年に三井鉱山合資会社を設立し、三井家同族が直接出資する形としました。中上川の工業化路線は、資産の保全を第一に考える三井家の批判を受け、晩年の中上川は孤立し、1901年(明治34年)に不遇のうちにこの世を去りました。前年に、43歳になった高棟は三井同族会の議長に就任しています。中上川の死後は、三井家と井上馨の信任が厚かった三井物産社長・益田孝が、事実上、三井財閥の総師となりました。益田孝(1848~1938)は佐渡奉行所の役人の子として生まれ、父が箱館奉行所に抜擢された時、彼は同所で英語を学びます。1863年に幕府が欧州使節団をフランスに派遣すると父に従って同行し、帰国後、幕府が倒れた為、横浜で商売を始めた時に、井上馨・五代友厚の推挙で造幣局に入ります。その後、井上と行動をともにし先収会社で貿易事業を始め、同社が1876年に三井物産になると事実上のトップになりました。益田は、三井の事業を統括強化する為、1902年に三井家同族会に管理部をおきその専務理事となり、事業の再編・方針転換を行った。益田は、三井家同族会管理部を法人化して持ち株会社・三井合名会社を設立し益田は三井財閥の事業・組織を体系化した事を見届け、1914年に勇退しました。後任には、三井鉱山の団琢磨を推挙します。ここまで、随分入り組んだお話になっていますが、どの財閥もそんなに簡単に、維持管理が出来た訳では有りません。大きくなればなるほど、特に団は、三井本家当主・八郎右衛門高棟は団に並々ならぬ信頼を寄せ、口うるさい分家を抑えて、団を支援していました。昭和7年に起きた、血盟団事件の犠牲になり暗殺されました。この事が、きっかけになり高棟は現役を引退することになります。次回。
2021/10/01
高棟(幼少期はまだこの名を継いでいませんが、高棟でお話します)が、7歳から思春期を迎える15歳の頃、実は三井は最大の危機を迎えていました。今回は三井を支えた重要人物達のお話をします。その中には、大磯に別邸を持った人たちも何人かいます。では幕末から、明治維新にかけて江戸幕府は、長州征伐等の莫大な経費支出に悩み江戸の富商に御用金を課したが、中でも三井の割当額は大きく1864年から5回にわたり計266万両という法外な御用金の上納を言い渡しました。しかし、三井は大名貸し(大名への貸付金)の不良債権化等により営業状態が悪化していました。そこで三井は、勘定奉行・小栗上野介忠順(ただまさ)と親交のあった三野村利左衛門を外部から起用し、三野村は小栗に三井の窮状を説明して、減免に成功しました。明治維新後、政府は大隈重信を抜擢して貨幣政策にあたらせました。大隈夫人は旗本出身で、小栗忠順のいとこでした。そこで三野村は大隈とその部下であった井上馨に取り入り、明治4年(1871)に「新貨幣為替御用」(金銀の地金を受け取って新貨幣を渡し、受け取った地金を造幣局に送る役目)に三井が独占的に拝命することに成功します。三井は「政商」と、かしていきました。1872年、明治政府の財政を握っていた井上馨から「三井家は呉服業を分離して銀行設立に専念せよ」との内命を受けます。そこで三井家は越後屋呉服店(現・三越は、三井と越後屋の一字ずつを取って命名された)を形式上切り離し1876年に私立銀行・三井銀行を設立した。この少し前から、高棟は同族の青年達と銀行業務等を、学ぶべくアメリカに留学します。この間に、三井は次なる変革に迫られます。三野村を中心に改革を進めていきましたが、1877年に三野村が死去すると、また旧体制に復し1890年、時代の改革に遅れを取った三井銀行は、不況のあおりを受け、多額の不良債権を抱え込むことになります。この難局を乗り切るために、さらに外部から人材を招致せざるを得なくなり、福沢諭吉の甥・中上川彦次郎(大磯に別邸を構え、現在はご子孫が暮らしています)に白羽の矢が立てられました。彼は、豊前(現・大分県)中津藩士の子に生まれ慶應義塾を卒業後、留学先の英国で、外遊中であった井上馨の信頼を得て、1891年に井上の推挙で三井銀行理事に就任しました。その長女と結婚したのが、池田成彬(大磯の別邸は現・滄浪閣の隣の建物です)です。次回詳しくお話します。
2021/10/01
前回から、引き続き高棟を語ります。何故、高朗の養子に五十之助が選ばれたのかは不明ですが、文久3年(1863年)に順養子になった4年後の慶応3年(1867年)、10歳の長四郎(順養子になって改名)は、代々の三井家当主がそうであるように、「高」の一字を含む「高棟」の名が与えられ、総領家第十代当主としての座が約束されました。徳川の時代が終わり、元号が明治に変わったその年(1868年)、11歳の高棟は京都の本店に出勤することになります。これは将来三井を率いていくための修行の第一歩でもありました。そして、明治5年15歳の時に、井上馨や渋沢栄一の勧めでアメリカに2年間の留学をします。渡米の目的は、海外への見聞を広めると同時に銀行業務などを勉強するためでした。因みに、明治5年は米国の銀行制度をモデルとした「国立銀行条例」が制定され、翌年には日本初の「第一国立銀行」が発足して、初代頭取に渋沢栄一がついています。2年間の米国留学を終えて帰国すると、明治9年に発足したばかりの三井銀行(現・三井住友銀行)に入行します。この年は、旧三井物産も設立されて、近代における三井財閥発展の足場が固められた年でもありました。9年後の明治18年(1885年)3月、高棟は養父であり実兄・高朗から家督を相続し、総領家当主となり、三井八郎右衛門高棟を襲名し、以後昭和8年隠居するまでの48年間にわたり八郎右衛門高棟を名乗りました。しかし、いきなり三井各事業のトップになれたわけではありませんでした。襲名から2年後の昇進でも、三井銀行の役職は、精算課長に過ぎなかったようです。総領家当主として高棟が尽力した事績の代表的なものには、三井家憲制定・三井合名設立・理事長制度などを厳しく定めたものであり、その導入などが挙げられます。ここで、三井家は色々な財閥との姻戚が挙げられますが、高棟の最初の妻は、明治16年に大阪の豪商・加島屋の広岡家(浅)の養女・貴(幾)登と結婚しましたが、残念なことに8年後の明治24年に死別します。貴登との間に長男・高寿(たかかず)がいましたが、1歳5か月で亡くなり、4年後に妻・貴登も亡くなりました。翌年に再婚・旧富山藩主前田利声(としかた)の長女・苞子(もとこ)と再婚。二男五女をもうけます。苞子は、旧大名の出で、短歌・茶道・華道・お琴などをたしなみ、13歳という年の差は有りましたが高棟引退後の城山荘での暮らしは常に一緒でした。
2021/10/01
大磯町には、三井十一家の総領家(北家)十代目当主・三井八郎右衛門高棟、(永坂家)八代目当主・三井守之助、(本村町家)初代当主・三井養之助が、別荘をもちました。他にも、ご縁の有る方がいますが、今回はこの3人の方を中心に、この順番でお話をしていきます。今回語ります高棟は、別荘を構えました跡地が現・城山公園です。現存する建物は、北蔵と東蔵のみで、郷土資料館のエントランスホールには城山荘本館広間で吹抜上部を飾っていたものが展示されています。是非お尋ねください。ここで、本題に入る前に城山公園(じょうやまこうえん)と読まれる方が少なく、しろやまと読む方が結構います。折角ですので、簡単に城山の名の起こりをお話しします。戦国期に山城(こいそじょう~小磯城)が有ったことに起因して、じょうやまと呼ばれます。「鎌倉大草紙巻五」に関東の争乱・康暦元年(1379年)から文明11年(1479年)の様子を書いた記録が有ります。その後、山内・上杉家の関東管領争いから、長尾景春の家来・越後五郎四郎(小磯の山城に立て籠もる)と、太田道灌が戦いその傷を洗い流した川として吉田邸の手前を流れる川を「血洗い川」そこにかかる橋を「切通し橋」と呼び、太平洋岸自転車道にかかる橋が「血洗い橋」です。高棟が住む以前は、5代軍医総監の橋本綱常の別邸で、彼は大正天皇のご典医で、天皇も皇太子の頃、よくこの地を訪れています。この地を、譲り受けたのが明治28年と言われています。では高棟はどんな人生を歩んだのでしょうか。安政4年(1857年)の正月に京都で生まれました。この年は、日米修好通商条約の交渉が始められた年です。三井越後屋の出発から財閥解体が議決されるまで272年に及ぶ長い歴史の中で、三井家が最も繁栄したのは明治の半ばから昭和初期にかけてです。三井家にとって最も華やかなこの時代に当主の座にいたのが、三井八郎右衛門高棟です。その終の棲家が大磯の城山のあの地でした。三井家第八代当主・高福の8男として生まれ、高福は家祖・高利と同様の子沢山で、高利と全く同じ十男五女をもうけています。高棟はその中の13番目の子であり、幼名は五十之助と言います。文久3年(1863年)6歳の時、長兄である高朗の順養子となって、長四郎に改名します。三井家第九代当主として家督を継ぐ高朗には子がいなかったからであり、この時点で高棟は総領家北家の後継者と決定づけられました。では、次回に。
2021/10/01
今回は、三井財閥です。大磯にはとてもご縁が有ります。そのご縁のある方をご紹介して随時語りながら、三井家の歴史をお話していきます。三井総領家(北家)十代目当主・三井八郎右衛門高棟、三井十一家(永坂家)八代目当主・三井守之助(高泰)、三井十一家(本村町家)初代当主・三井養之助(高明)、三井の大番頭・中上川彦次郎(福沢諭吉の甥)、池田成彬(妻は中上川彦次郎の長女)の方々が、大磯に別邸を構え、又終の棲家になられた方も いらっしゃいます。名前だけで言いますと、大磯駅前に有ります、エリザベス・サンダース・ホームの名は、三井十一家(室町家)十一代目当主・高精の長男・高国の乳母としてイギリスから日本に渡り約40年勤められた方の遺産を頂きその方の名前を冠名にしました。では、三井家の歴史をお話していきます。江戸時代から続く富商・三井家(屋号・越後屋)を前身に持ち、戦前は日本最大の財閥でした。戦後は、三井グループに再編されますが、再結集が上手くいかず、三菱グループや住友グループの後塵になってしまいました。四代財閥の三菱と安田は一代で築いた財閥ですが、前回の住友と三井は歴史が古く、三井家の先祖も近江の国(現・滋賀県)の武士で戦国時代に織田信長の近江侵攻をきっかけに、三井越後守高安は伊勢に逃れ、その子・高俊が伊勢松坂で質屋兼酒屋を開店したと言われています。三井の創業者・三井高利(1622年~1694年)は高俊の四男に生まれ、1673年頃京都と江戸に呉服店を出し、「越後屋八郎右衛門」の暖簾を掲げました。(越後屋という屋号は、祖父・越後守に由来しています。)越後屋は、「現金掛け値なし」(現金で定価販売)という商売手法で爆発的な人気を得て、呉服店で得た資金を元手に両替商を始め、江戸・京都・大坂間で為替業務を開始し、巨万の富を築きました。又、三井家には分家制度と「総有」~(共有財産制度を経営史では「総有」制と呼びます)という大きな特徴が有ります。高利は子宝に恵まれ、死に臨んで総資産を長男以下に割り当てる分割相続を指示しました。しかし遺児たちは実際には資産を分割せず、可能な限り共同事業を続けていく誓約を交わしました。高利の子女は9軒の分家を立て、明治には十一家に増え、「三井十一家」と呼ばれるようになりました。三井家の財産は分家同士が共同で管理・運用し、原則として分割を認めない共有財産となりました。次回は、大磯の三井家についてお話します。
2021/10/01
4大財閥の初回として、三菱財閥(始祖・岩崎弥太郎・弥之助・久弥・久弥の長女・澤田美喜)を語りましたが、これから語ります、住友・三井・安田更に8大財閥・15大財閥と続きますが、三菱だけ自分の姓を冠名にしていません。今回三井に進もうと思っていたのですが、三菱があまりにも強烈でしたので、次回から財閥編はあくまでも大磯に関わる、本宅を構えたり、別荘をもたれたりした方を皆様にお知らせする語りですが、今回の住友寛一は厳密に言いますと、財閥では有りません。何故かというと、住友本家・15代の住友吉左衛門友純(ともいと)が父、母は住友吉左衛門友親の長女・満寿の長男として生まれましたが、本来は16代を継ぐべき人でしたが、病弱で繊細でその性格故に大正5年(1916年)分家した人です。大磯には、昭和7年(1932)に東小磯池見堂近くに別荘を構えましたが、財閥を継ぎませんでしたので、住友財閥は大磯には住んでいませんので、住友寛一を外そうと思いましたが、住友財閥は偉大な財閥ですので、変遷はお話したいと思いました。次号に語る、三井財閥・11世北家・三井八郎右衛門高棟は城山公園に昭和23年まで住まわれていましたし、安田財閥・始祖・安田善次郎も大正10年迄、王城山麓に住まわれていました。寛一は弟が住友を継承し、16代当主となった住友吉左衛門友成です。叔父に徳大寺實則・西園寺公望(大磯に隣荘という別荘が有ります)がいます。寛一は芸術宗教に惹かれ、若くして絵画に傾倒した為、廃嫡されました。住友の始祖は、とても古く桓武天皇の曾孫・高望王の二十二代目の子・小太郎(忠重)が父の姓と名をとって「住友」の姓を称して室町将軍に仕えたのが始まりです。住友家には、住友家の「家祖」と、住友家の事業の「業祖」の2人がいます。住友政友(家祖)には一男一女が有り、息子の政似には「富士屋」の跡を継がせ、娘の婿養子に蘇我理右衛門(業祖)の長子・理兵衛友似(住友友似)を迎えました。明治期に入って、住友事業は12代友親、その子13代友忠の下で営まれたが、友親・友忠が1890年に相次いで亡くなります。ここで、男系相続者が途絶えてしまう悲運に見舞われます。次号で、もう1回だけ住友を語ります、何故かというと三井家に実は何人も住友家の女性達が嫁いでいます。友純の妻・満寿の妹・楢光は、三井十一家の一つ「三井永坂町家」の八代目当主・三井高泰(守之助も大磯に別荘有り)に嫁いでいて、三井の5家と閨閥が拡がっているからです。

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