2021/04/28
久弥が三菱合資会社の社長として事業を統括し、鉱業や造船を中心に幅広く発展させたのは明治から大正にかけてです。それは近代国家確立の時期でもありました。今回は、その久弥が個人的に関心を持ち、ことのほか、心を砕いたと言われている二つの事業が有ります。それは「神戸の紙」と「横浜のビール」です。今回は先に「横浜のビール」を取り上げてみます。明治の初めからスプリング・ヴァレー・ブルワリー社(かつてグラバーが社長をつとめていた)がビールを造っていた。横浜在住の外国人達が岩崎弥之助や渋沢栄一ら財界人の出資を得て、買収しジャパン・ブルワリー社としました。当時は、ビールは日本人にはあまり普及していませんでしたが、総合代理店の明治屋が明治21年に「麒麟」のラベルで一般向けに売り出しました。因みに、当時は、ビールのラベルに犬やライオンなどの動物を使うのが世界的に流行っていて、ラベルの麒麟に太い口髭が描かれているのは、前の会社の社長を勤めたグラバーの口髭を元にしています。長崎のグラバー邸に,その元になった麒麟の像が有ります。今回の写真はそれを掲載します。明治屋は、弥之助から資金援助してもらいロンドンに学んだ磯野計が成立させました。横浜に立ち寄る船舶に食料品や雑貨を納入する事をメイン・ビジネスにしていたが、酒類の輸入販売業者でもありました。二代目社長・米井源次郎はジャパン・ブルワリー社の買収を計画し、中国視察に赴く久弥を追いかけて、上海航路の船上で直談判。全面支援の約束を取り付ける事が出来ました。 40年、明治屋と岩崎家に日本郵船も加わり「麒麟麦酒株式会社」が設立され、買収は実現しました。その後、業界は熾烈なシェア争いが、くりかえされることになりますが、久弥は一貫して麒麟麦酒を支えました。もう一つの「神戸の紙」は、弥太郎が土佐開成館長崎出張所の主任の時に土佐の物産を売り込む時の取引先がウォルシュ兄弟で、神戸で経営していた製紙工場に岩崎家が出資したのは、明治22年。弟のジョンが亡くなり兄も高齢になり事業を整理して米国に帰ることになった兄弟の持ち分を、久弥が買い取り、合資会社神戸製紙所を設立し、37年に三菱製紙所としました。当初は、三菱合資会社の傘下にあり、久弥が社長を退いてからは、岩崎本家の事業として位置付けられたが、久弥自身は末永く経営にかかわりました。これも何かの縁か、土佐は昔から和紙の生産が盛んでした。では、次回。
2021/04/28
前回までは、ご家族特に大磯に関わります、澤田美喜のお話をさせて頂きました。本来の3代目岩崎久弥に戻ります。明治27年(1894)保科寧子と結婚、東京・駒込・六義園に新居を構えます。六義園は、久弥の父・弥太郎が川越藩主・柳沢吉保が元禄15年(1702)築園した「回遊式築山泉水」の大名庭園を明治時代に入り、収得しました。久弥は、新婚の2年間を暮らします。その後、昭和13年(1938)に岩崎家より東京市(都)に寄付され、昭和28年(1953)に国の特別名勝に指定された文化財です。この後久弥が50年以上暮らすことになります、萱町・岩崎家本邸(越後高田藩・榊原家中屋敷)を始め、東京には9つの都立庭園が有りますが、そのうちの4つの庭園(旧岩崎邸庭園・六義園・清澄庭園・殿ヶ谷戸邸園)は三菱財閥創業者一族の岩崎家の庭園です。私は全て巡りましたが、素晴らしいの一言です。初代・弥太郎の夢は庭園を造る事でした。その夢を、5代(財閥解体が無ければ、久弥の長男・彦弥太が次ぐ予定でした)で継ぎ、最後の殿ヶ谷戸は彦弥太が、国分寺別邸としました。萱町・岩崎家本邸は、久弥がジョサイヤ・コンドルに設計を依頼し、明治29年に完成し、昭和20年にGHQに接収されるまで、暮らしの土台になった場所です。イギリス17世紀初頭のジャコビアン模式を基調にした傑作で、久弥が留学していたペンシルヴァニアのカントリーハウスのイメージを取り入れた木造の建物です。現在は、明治の代表的洋館建築として、古いレンガ塀や広い芝生の庭園とともに、国の重要文化財に指定されています。一方仕事の面では、造船事業で長崎造船所の常陸丸建造が、日本郵船の欧州航路開設の為、6000トン級貨客船を6隻造る事が決定された。当時は、この規模の船舶はイギリスでしか造れず、イギリスの技師が長崎に派遣されたが、異常なまでの厳しい検査が実施された為、工期が遅れ三菱は膨大な損失を出しましたが、6000トン級の実績が出来、アメリカ航路の豪華客船の発注や、大型軍艦の建造も任されることになり、造船王国と言われるまでに発展しました。日露戦争の後、造船業界を二分していた某造船所の経営が行き詰まり救済合併の打診があった時、造船部の幹部は天下を取ったように久弥に告げますが、久弥は「それはいけません、合併して競争がなくなると気が緩みます。あくまでも両社が競争して安くて立派な船を造る事が、お国の為です」久弥らしいエピソードです。
2021/04/28
今回は、澤田美喜がエリザベス・サンダース・ホーム設立に関してのお話をして、父・久弥の話に次号から戻りますが、ここで財閥の戦後について少しお話します。マッカーサーは、日本の非軍事化と民主化を目的とする占領政策を推し進めました。戦争犯罪人の処罰、個人の自由と民主主義の推進が続く中で、GHQに対応できなかった東久邇宮稔彦内閣が総辞職し、幣原喜重郎(岩崎弥太郎の4女の夫)内閣が誕生しました。幣原は、久弥にとって義弟にあたります。この幣原のもとで三菱をふくむ四大財閥に解体を迫る指令がGHQ(総司令部)から発せられたというのも、因縁めいた巡りあわせでした。その時三菱を率いていたのは、4代目小弥太でした。三菱本社は、「自発的に」解散すべしとの日本政府の指示を、「国策の命ずるところに従い、国民としてなすべき当然の義務に全力を尽くした」までと、社長の小弥太は拒否し続けました。しかし、国はそれを許しませんでした。この事もきっかけになり,小弥太は病魔に侵され、その年の12月2日の夜、66歳で亡くなりました。美喜もこの年に、三男・晃を戦争で20歳の若さで亡くす事になります。美喜は、第二次大戦後日本に進駐してきた米兵と日本女性の間に生まれた混血孤児の為に尽くしました。終戦後、全国で混血の子が捨てられたり、社会から疎まれたりしていることに、憤りを覚え、彼らの「母」になることを決意します。家族や教会関係者の協力のもと、持ち前の行動力でGHQや日本政府に混血孤児の救済を働きかけました。様々な中傷や誹謗の中で挫けそうになると、父・久弥を末広農場に訪ね、アドバイスを求め、励まされやる気を取り戻しました。ホーム建設の為の資金集めに奔走します。本来は、大磯の別邸は父が美喜に譲りたかったと、嘆きましたが、その土地は、財閥解体と共に政府に物納されていました。始めて2人の子供を聖路加病院から引き取る時に、父が出来る唯一の事として、ロールスロイスの車を手配し、その車で子供達を連れて大磯へ向かいました。美喜により、2000人以上の子供達を立派な社会人として育て上げました。そして今年は、美喜生誕120年です。この記念すべき年に、記念館が公開になり、海の見えるホールで、偲ぶ会が出来たら、どんなにうれしいか、ただただ祈るのみです。写真は、この部屋で、美喜は世界中の方に支援の手紙を書き続けましたが残念なことに、スペインで講演旅行の途中に、78歳の生涯でした。
2021/04/28
明治34年6月から11月にかけて久弥は欧米を視察していました。英国に留学する弟達と、わが国建築界の先駆者の1人曽禰達蔵(明治23年三菱入社)を帯同して、一行は初航海の日本郵船の加賀丸でバンクーバーに渡った。そんな頃、美喜は生まれました。名の謂れになった大祖母(美和)は三菱を興した祖父・弥太郎の母で良く出来た人でした。岩崎家に嫁してから死ぬ日まで毎日、日記を書き続けて当時「女は教育はいらぬ」と言われていた時に、半紙で綴じたものに筆で日記を書き続け、それが後々、岩崎家の家憲となりました。残念なことに、美喜が生まれる1年前に、現在の大磯のトンネル(陽和洞)を抜けた地で亡くなりました。祖母(喜勢)は、驚くべき忍耐強さと、どんな苦しみも顔に出さない人でした。美喜が嫁ぐまでの、20年余りの間、祖母は夜、美喜を話し相手に古い話を繰り返し聞かせました。今日の彼女の道しるべともなり、人生観の基礎を作り上げました。エリザベス・サンダース・ホームを設立した時も、世間からは財閥のお嬢さんの我儘だの、思い付きだの言われました。岩崎家の教育はとても厳しく、驚くほど質素です。物を無駄にしない事。物を大切にする事。それを作った人々に感謝を忘れない事。ホームの子供達の教育にも生きています。蚕も飼っていました。それは「蚕を飼って糸をとり、つむいで織ることをしなければ、絹の着物を着る資格が無いのだ」と、それも実践しました。現在のホームの事務所前あたりは、昔は桑畑でした。叔父の弥之助が、明治41年に亡くなった後、父・久弥が大磯の地を相続してからは、頻繁に大磯に行きました。美喜11歳の時、東京で百日咳が流行り,美喜を始め兄弟もその病にかかり,大磯に静養に行った折、有る事がきっかけでキリスト教へと目覚めます。その思いは祖母の反対にあい、お茶の水高等女子師範学校を15歳で退学させられます。祖母は、学校に行くことで異教徒に目覚めたと思い、心配のあまり自宅での勉強へと切り替えました。その思いは、年頃になっても消えず、結婚相手の条件としてクリスチャンで外交官の澤田廉三に白羽の矢が立ちました。その後46歳の時、ホーム設立へと繋がり、その11年前に澤田美喜記念館の展示・隠れキリシタンの遺物収集を始めました。コロナで昨年の2月から約1年間、澤田美喜記念館の一般公開が有りません。まだまだ目にしてないものが一杯あります。コロナ自粛解除後の公開を楽しみにしています。
2021/02/05
一家は東京に移り、久彌は慶応義塾幼稚舎に入学します。明治8年から3年間、福沢諭吉の薫陶を受け福沢は教室で歴史や日本外史を講義するとともに、生徒達を時々私邸に呼んでは、ご馳走をし公私にわたって指導しました。...

2021/01/22
今回は三代目・久彌です。慶応元年8月25日(1865)、土佐国安芸郡井ノ口村(現・高知県安芸市井ノ口)に、地下浪人岩崎彌太郎・喜勢夫妻の長男として生まれます。前回・岩崎彌太郎の時に詳しくお話しできなかった祖先のお話をしてみます。...

2021/01/08
前回、三菱村の基礎になる土地を購入したお話をしましたが、実はその頃大磯の駅前にも約32000坪の土地を購入しています。駅前だけでなく、駅裏の湘南平へ向かう坂田山や、茶屋町・台町等です。丸の内よりもっと藪だったと思いますが、彌之助は先見の明があったのですね。...

端島
2020/11/27
タウンニュース掲載