第30回財閥編・三井八郎右衛門高棟⑨
三井八郎右衛門高棟は、今号で最終回です。次回は、大磯にもう2件、三井家の別荘が有りました。三井守之助・三井養之助です。年内はこのお二人のお話で締めくくりたいと思います。戦後、高棟が昭和23年(1948)に91歳で亡くなりましたが、戦後の財閥解体により、ほとんどの土地や建物が三井家の手から離れました。昭和45年(1970)に城山荘は名古屋鉄道株式会社の所有になりました。如庵と幾つかの建造物は移築されましたが、多くは解体され部材として残されたものも有ります。先日熱海にありますMOA美術館に行ってきました。二つの門が移築されていました。唐門と片桐門です。如庵、及び重要文化財旧正伝院の移築に伴う工事は、如庵保存協議会会長の高橋誠一郎会長を中心に結成され、解体については建物全般を丁度、人体のレントゲン写真を撮るように細かく分けて、壁際に打たれた釘の形状等で時代別の鑑別をし、昔の大壁はそのまま外す「大ばらし工法」が採用されました。実はこの時で3回解体して運ばれているのです。一番最初は、京都から明治41年に東京今井町・本邸に運ばれ、昭和13年に大磯に移され、今回も同じ方法の「大ばらし工法」で現在の「有楽苑」に運ばれたのです。凄い技術ですね。大磯に運ばれてきた時には、下草迄も運んだと聞いています。運搬についての方法は全て美術輸送車を使い、当時数億円の代価に対する損害保険を付し、東名高速を時速30から40キロメートルの低速で慎重に運びながら行政県が代わる毎に位置と時間を報告するという最大の手当てをしながら大磯町から移動したそうです。その後、城山荘にあった「旧本館」「降鶴堂」の解体の後、「洗心寮」「大雄殿」「正門」は、滋賀県仰木の里に大磯の城山荘と同じような地形に再び移築され、現在は「覚性律庵」という信仰の場として多くの里人に親しまれていると、聞いています。又、「正門」脇にあった「立札席」の「松聲寮」は、広島県竹原市の陶芸家今井政之の「迎賓・茶室」として、又城山窯にあった登り窯は、その材料一式を再用して「豊山窯」として竹原の地で活用されています。大磯の「城山荘」の創建の精神はこの様に各地で、大事に取り扱われて、今尚各地で多くの人に尊ばれ、息づいていると聞いています。又、現在所有者が変わっているかもしれませんが、それはそれで新たな元気を与えていると思います。三井八郎右衛門高棟の精神に乾杯です。
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