三井八郎右衛門高棟⑦

28回財閥編・三井八郎右衛門高棟⑦

 

前回までに、なぜ彼が第十代三井家を継ぐことになったかは、お話ししましたが、簡単にまとめてみます。高棟は、安政4年(1857年)第八代当主・三井高福の五男として京都に生まれました。明治515歳から2年間米国に留学、帰国した後、健康に優れなかった長兄・第九代当主・高朗(子が無かった)の順養子となり、明治18年(1885年)に第十代当主になりました。大磯で彼の事を語ると、生い立ちのみならず現在・大磯城山公園の中に当時は希有な建物でしたが、その時代の思いがこもった素晴らしい建物(現在は、北蔵・東蔵しか現存してません)のお話や、犬山に移築されました茶室・如庵。現在公園の中にレプリカですが城山庵として茶席も有り、お茶も頂けますし、お茶会も出来ます。高棟自身のお話と建物も含みましてのお話をしていきます。あの地を別荘として、第5代軍医総監・橋本常綱から収得したのは、明治20年代後半で建築したのは、明治31年、当時はまだこの地でゆっくりすることは出来ませんでした。彼が、三井家当主を相続した時は、同族の中でも年少の家長で、三井家の改革を先頭を切って行うにはまだ少し時間がかかりました。明治33年に三井同族会の議長になり、明治4211月に三井合名会社の社長に就任し、それ以後は盟友と言われた団琢磨と出会い、理事長・団と共に三井財閥の黄金期の時代を築いていきます。しかし、世の中は第一次世界大戦による好況から世界恐慌による不況へと経済情勢が大きく変わる中での、黄金期を迎えたことから世の反発を受け昭和7515日血盟団事件の犠牲に団琢磨が暗殺されてしまいました。高棟は団を失ったことから、当時75歳と高齢でもあり、団を失くした悲しみは中々癒えることはなかった。事件の翌年の昭和8331日、息子の高公(たかきみ)に家督を譲り、同族会議長及び三井合名会社社長を辞任、現役を引退し大磯の別邸・城山荘の再建に着手していきます。何故かと言いますと、明治31年に建築しました別荘は、実は関東大震災で倒壊していたのです。その修復を本格的に昭和8年から始めることにしました。高棟は実はとても建築に造詣が深く、大磯の別邸に関わるまでに三井財閥のシンボルであります三井本館・迎賓館三井俱楽部・自邸の今井町本邸など、幅広い建築体験をしています。隠居後の住まいとして城山荘の工事に取り掛かってからの彼の思いを引き続き語りたいと思います。