安田善次郎⑪

財閥編43回安田善次郎⑪

今回は、事業の話ではなく彼の人となりについてお話します。へえ話が多いかもしれませんがお許しください。そして家族の絆、特に父善悦に対する親孝行は徹底していました。そして父・善悦もそれをしかと感じ彼にこんな言葉を掛けています。「次の世ではとてもお前の親にはなれない。お前が親でわしが子供じゃ。いや子にもなれないかもしれん。お前は本当にたくさんの陰徳を施しておる。」親にこれほどの言葉を言わしめた人物を他に、聞いたことが有りません。だが、人はいつまでも生きることは出来ません。明治19年(188611月頃から父・善悦の体調は芳しくなくなり、明治20316日に遂に息を引き取りました。病名は横隔膜カルチノーマ(癌)でした。後年善次郎は、大磯別邸の裏山の美しい湘南の海が見える場所に、父の座像を据えました。コロナの自粛からここ2~3年安田邸(安田不動産・大磯寮の事です)の公開が無いので見ることができないのが残念です。とても立派な座像です。前回お話ししましたが、安田保善社設立は父の死が大きく影響しました。安田保善社は、後の安田財閥の司令塔として、持ち株会社の性格を持つ合名会社保善社(明治45年改組)へと発展していくことになります。善次郎は、自分の家族をそれぞれ、同家六家(善次郎・善四郎・善之助・真之助・三郎彦・忠兵衛)、分家二家(文子・善助)類家二家(太田弥五郎・藤田袖子)と位置ずけて結束を固め、宗家はあるものの平等としました。善次郎の直系である安田宗家を“桐廼舎”と呼び、以下、先に挙げた順番に、柏舎・松廼舎・竹廼舎・梅廼舎・菊廼舎・糸巻舎・葵舎・瓢舎・桔梗舎という屋号をつけ結束の象徴としました。

 

東京の護国寺の安田家のお墓はこの花模様でお線香立てが有ります。普段は鍵が掛かっておりますが、私・縁あって拝見した事が有りますが見事なものでした。安田家の会は現在まで綿々と続いているそうです。家族を大切にした善次郎の薫陶の賜物です。前回でもお話ししましたが父亡き後の喪失感を埋めるがごとき事業拡大しますが、沢山の会社の救済と共に、両毛鉄道・水戸鉄道・東京水道・下野麻紡織・帝国ホテル等の会社設立に参加します。そんな彼が、算盤ばかりはじいていると、肉体ばかりか精神まで軟弱になると乗馬を始めます。それは見事にこなしたそうです。そんな折北海道の牧場に立ち寄った時、馬や牛を見せてくれたのが、名騎手・武豊・幸四郎兄弟の曾祖父でした。