安田善次郎③

財閥編第35回安田善次郎③

幼い頃の善次郎は「岩マ」(幼名は岩次郎でした)と呼ばれ、福々しくかわいい子供でした。そんな彼が、早く親孝行をするにはどうしたらよいか、家業の手伝いはもちろんの事、仏花の販売からお金を稼ぐ事も学びました。寺子屋を卒業した12歳以降も農作業を手伝いつつ、天秤棒を担いでの行商でも、人と違った商売の方法も研究していました。善次郎の当初の夢は「職人」でした。しかし、そのうち「金持ち」に変わりました。理由は2つありました。雪の降るしきる寒い日の事、善次郎と父は五百石取り(家老格)の武士と道の途中で出会いました。藩の役人に合うと、雨天であろうと何であろうと下駄まで脱ぎ、額を地面に押し付けて土下座する決まりでしたので、父は足駄を脱いで雪の上に座り、お辞儀をしました。私は少年の身ながらはなはだ情けなく思いました。二つ目の理由は、善次郎が城下を歩いていると、向こうから立派な籠が来ました。後ろには、藩の重役たちが付き添っていたので、よほど身分の高い人に違いないと思い近くの人に聞くと、何と籠にいるのは大阪の商店の番頭で、更に詳しく聞くとこの店に富山藩がお金を借りているので、重役たちが城下までその番頭を迎えに出たというのです。そこで、善次郎は悟りました。金の力というものは何と偉大ではないか。金の前には身分も何もあったものではない。必ず、商人となって金持ちになりたいと、深く心に決したのです。~これは私の15歳の折の決心です。今にも忘れませぬ。~私はまず、千両の分限者になろうと決心しました。商人として成功するには何をさておいても江戸に出なければなりません。ところがここからが大変でした。善次郎には、二つの障害が有りました。一つは、三男二女を失っていた両親にとっては唯一の男子である善次郎は安田家を継がせるべき大事な跡取りでした。江戸行きを承諾してくれるはずもなく、彼は両親に黙って家を出る決心をしました。もう一つは、「通行券」がもらえない事です。黙って家を出る訳ですから。こんなことからこの家出は、連れ戻されたりを繰り返しやっと、江戸に行くことが出来ました。彼は、江戸で見聞きしたことから必ず成功して1千両の分限者になって錦を飾って帰ると約束し、その結果ついに両親がこれを許可することになり、安政5年(1858)晴れて江戸に向かうことが出来ました。次回からは江戸での彼を楽しみにして下さい。