安田善次郎⑧

財閥編・40回・安田善次郎⑧

 

明治5年から日記をつけ始めました。善次郎33歳の時でした。書き始めは、11日「浅草観音に参詣す」という初詣の記事です。亡くなる前日までの49年間、毎日几帳面に書き続けましたので、彼の日常を詳細に知る事が出来ます。彼は、正月に決算を行うことを吉例としていました。当然、売り上げが毎年上がっていたからこそ吉例だったわけです。定員たちは、決算結果に応じて配られる特別手当(今で言うボーナス)を心待ちにしていました。因みに、日本で最初にボーナスを支給したのは明治9年の三菱商会とされていますが、安田商店はそれより4年も早かったのです。でも、給料は低かったようです。前年(明治4年)の新貨条例によって円が導入され、「一両を一円とする」が人々は中々なじめませんでした。当時の貨幣価値を現在の貨幣価値に換算するのは大変です、何故かというとこの頃は、お米が10キロ当たり三十六銭(1円=百銭)、米換算で行くと1両は現在の1万円強、もりそばは5厘(厘は円の千分の一)、これで換算すると1円は12万円ほどになります。安田商店の事業拡大を考えるうえで本両替商(現在の銀行業務の事・信用を必要とされていた)の免許を明治5222日に得ることが出来ました。彼は、自宅用こそ(身代の十分の一以上はあてない)と心に決めていましたが、投機の対象としての不動産には魅力を感じていました。現在大磯に有る善次郎邸は、安田不動産・大磯寮です。江戸幕府が瓦解後、東京府下は空き地が目立ち一等地でも二束三文で買えました。明治29年に東京建物株式会社(安田関係会社に編入)を設立に至るまでに彼はコツコツと一等地を買っていきました。大手町1丁目の交差点・日本橋と呉服橋の交差点・数寄屋橋の交差点・主な場所の交差点近くにはみずほフィナンシャル(安田銀行→富士銀行→みずほ銀行)グループの建物があるはずです。現在安田不動産が所有する不動産を含めて、まさに安田善次郎時代の蓄積・先見の明につきます。商売は、順調に伸びていきますが家族や身内には心配事が多く、妹・清子は病弱で心配が絶えませんでしたが可愛い妹の為に、最高の医療(現・東大医学部)を受けさせ、約2年程かかりましたが、病弱だった清子が男の子を生んだ時には涙を流さんばかりに喜び、富山の菩提寺の西圓寺の住職に上京してもらい健康に育つように祈ってもらいました。この西圓寺に明治の時代に400万円の寄付をしています。是非換算してみて下さい。