安田善次郎⑩

財閥編42回・安田善次郎⑩

善次郎は、安田一族の結束を固めるために「保善社」なる私盟組織を作りましたが、それは安田銀行の資本金を管理する目的でした。彼が、50歳という年齢を迎え、父・善悦が他界した年、明治20年(18877月に発足する保善社の創立意図をこの様に述べています。「予は中興の財産といえども一己専有のものとせず、すなわち御父祖の預かりものと為し、其の財産をもって安田銀行の資本と為す。」保善社規約、第41条を「安田家現在の財産を百万円と定め、これを安田銀行の資本金とする」この年、善次郎にとって父・善悦を亡くした喪失感の強い年であったが、逆にそれを埋めるように事業拡大に邁進しました。資本金を100万円に増資した安田銀行は、後年安田銀行の持株会社に転ずるこの「保善社」と「一心同体のもの」として経営され、以来飛躍的に発展していったのです。これから後の銀行救済は並大抵ではできなかったであろうと想像します。この後の、銀行は系列への参入や離脱・合併など目まぐるしくデーターは変わりますので、結果だけ書きます。善次郎は、約70行の破綻銀行を支援・救済しています。第三銀行と安田銀行だけだったはずが、このときすでに16行を擁していますが、このとき、「根室」「金城貯蓄」「群馬商業」「明治商業」銀行以外は、経営破綻の危機に瀕して救いを求められた銀行です。「信濃銀行」「九十八銀行」「大垣共立銀行」「京都銀行」「日本商業銀行」「百三十銀行」「二十二銀行」「十七銀行」「肥後銀行」「高知銀行」(現・安田不動産・大磯寮の玄関横に三基の灯篭は高知銀行から寄贈されています)を引き受け、蘇生させた銀行です。(銀行によっては、本店のみ、或いは何行の支店のみの場合も有ります)そのことが、「実業之日本」に載っています。この雑誌の記事から十六行のうち十行が救済した銀行ですが、実際は吸収・合併・分離その他さまざまケースがあって安田系の銀行が一つになった大正12年(善次郎亡き後)までの間に、実は70程の銀行を救済しました。善次郎が亡くなるまでの40年間に「恐慌期」など様々なピンチが有りました。明治の代表的な雑誌の「太陽」に「安田家の手腕」の記事で、「三井が一流か三菱が一流か世の疑問なれども、この両家に次ぐは安田家なることはほとんど争うべからざるが如し。~」支援・救済は安田流の慈善心からに間違いはないでしょう。父・善悦の言葉・「陰徳を積め」を黙々とこなしていきました。