浅野総一郎①

財閥編・51回浅野総一郎①

 

前号で、四財閥(三井・三菱・住友・安田)を終え、今号から八財閥(浅野・森村・大倉・山下)に入ります。前回の安田善次郎の最後を見届けた浅野総一郎にバトンを渡そうと思います。起承転結ですが、何故浅野が安田の最後にいち早く駆けつけられたのかは、「東京築港計画」を実現するために頼ったのが、日本一の銀行王・安田善次郎でした。その打ち合わせの日が、大正10年9月28日だったのです。そしてその日が、安田の最後の日になりました。その事から、浅野総一郎以外は語れないと思いました。更に残念な事に安田最後の地の場所は、浅野が明治23年頃に購入し、大正時代の始めに安田に譲った地でもあります。そんな縁から、八財閥最初は浅野総一郎でスタートです。

浅野は、安田と同郷の富山県の出身です。越中国氷見郡薮田村(現・富山県氷見市)、嘉永元年3月10日(1848)生まれ。医師である父・浅野泰順、母・リセの長男として生まれます。父も祖父も医師で、村で一、二を争う資産家でした。浅野家は、16年前に女の子が生まれたものの、その後は子どもが授からなかったので、その長女(名は富)に婿を取らせることが決まった後の、男の子で、本来は喜ぶべき男子誕生でしたが、総一郎の誕生は「時、既に遅し」父・泰順は当時では高齢で、総一郎(幼名・泰治郎)を跡継ぎにするには幼いと思い、更に2年後に弟・寛一が生まれます。姉も結婚しすぐに男の子が誕生します。そんな訳で総一郎は、5歳で母の妹・トヨの家に養子に出されます。トヨは、氷見の町医者・宮崎南禎に嫁いでいました。養家では、叔母は優しかったが、血のつながらない叔父はとても厳しく、期待の下で学問を強いられることが辛く、身に入らず代わりにたくましく働く行商人や商船の出入りに目を奪われ、江戸末期、北前船による海運業で富を築いた豪商・銭屋五平衛にあこがれていました。しかし、「夢」を伏せながら我慢の日々を送っていました。14歳の春、養父から「武士なら来年が元服だ。1人前の医者になって、家の手伝いをして欲しい」と言われ、当時唯一の医学書「傷寒論」を教え込まれます。「傷寒論」は、中国の医学書で、漢方のバイブルとも呼ばれていました。その本を3ヶ月で修得し、養父の代診が勤まるほど利発でした。その養父に、褒められることで医業を容易なものと蔑んでしまいます。そんな時に氷見の町にコレラが蔓延します。ここから彼の本当の人生が始まります。では次号。